アイザック大阪校

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生徒さんより

2012年09月07日

ベトナムよりお便り

先日赴任でベトナムのホーチミンへいらっっしゃったSさんよりお便りが届きました。
ベトナム語で先生に宛てたお手紙です。

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ティエン先生
こんにちは。お元気ですか?
ご連絡がおそくなってしまい、ごめんなさい。
私は2週間前にベトナムに来て、学校に通っています。
ティエン先生が日本で私に一生懸命ベトナム語を教えて下さったので
授業がよく理解出来ます。先生にも「よく理解していますね。頭が良いですね。」と
ほめてもらっています。
毎日8時~15時まで授業で、それから復習と大変ですが早くベトナム語を話せるように
なりたいです。またホーチミンか、大阪でお会い出来ることを楽しみにしています。
ありがとうございました。

現地に行かれて活躍されているお便りは本当に嬉しいです。
これからのご活躍、楽しみにしています!

2012年02月10日

シルクロード自転車の旅 トルコ編

【トルコ 寒中爆走編】 


自転車の件を訴えにイラン警察に行ったが、まあ警察が見つけてくれるわけ
でもなく、お巡りさんに連れられて新しい自転車を買いに行った。
しょんぼりしている俺を可哀想に思ったか、自転車と装備品300ドルのところ
100ドルをお巡りさんと自転車屋さんがカンパしてくれた。
優しいじゃないかイラン人。
だから泥棒のことは呪っているがイランを恨む気持ちはあまりないのだ。
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アララト山



 さてタブリーズあたりから標高が高くなって一気に気温が下がる。
トルコは寒い寒いと聞いてはいたが、ほんとに寒かった。
入国初日からテントが結露で凍る。温度計で確認できた最低気温は-10℃である。
のんきに自転車漕いでられる気温じゃねえ。
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おまけにトルコは冬が雨季だから雨は降るわ雪は降るわ吹雪に見舞われるわで
散々だった。イランで自転車と共に盗まれた荷物の中にフライ
(テントの防水シート)、レインウェアパンツ、靴カバー、シュラフカバー
などが入っていたので、まさに地獄だった。フライがないので夜雨が降る
可能性がありそうなときはトンネルや橋の下などを見つけてテントを張らなくては
いけない。雨が降ると下半身はずぶ濡れになり、疲労凍死の危険もある。
雨具だけは調達しようとタブリーズで奔走したが結局見つからなかったのだ。


 雨の降りそうなある日、路上で風変わりな三人組と出逢った。
すれ違う瞬間「あれッ?」と聞こえて、(「あれッ?」て日本語だよな?)と
思い引き返すと日本人のマラソンランナーだった。
パリから日本へマラソンで向かっている途中だという。
中古車のガリバーの会長さんら三人ということだったが、トップがそんなことを
するなんて、日本の企業もまだまだ捨てたものじゃあない。
「エルズルムのホテルに泊まってるんだけど、招待するよ」と会長さんが仰るが、
距離的にかなり厳しい(あと一時間もすれば暗くなる時間で、まだエルズルム
まで40kmくらいあった)のでちょっと遠慮しようかな・・・と思っていたら、
誰かが「遠いしホテルはかなり高台にあるし無理無理」と言う声が聞こえた。
無理・・・?無理だって?
中国から一万kmを走ってきた俺に、たかが40kmが無理?3000m以上の峠を
越えてきた俺に、街からたかが300mの高台にあるホテルにたどり着くのが無理だって?
フフン、ずいぶん安く見られたもんじゃあないか・・・!俺は発奮した。


予想通り途中で日は暮れ、闇の中を走ること二時間、雪は降り始め人家は
途切れ、こんな山の上にホテルを作った人間に憎しみを感じ、野宿を選ばなかった
自分を責め始めた頃ようやくホテルに辿り着いた。
びしょ濡れでガタガタ震えながら夜中に転がり込んできた惨めな日本人旅行者に
ホテルマンも驚いていた。ちなみにこの旅で泊まった宿の中で一番高級だった。


またある日は2000mくらいの峠を越えている途中で日が暮れ、雨露をしのげ
そうなところも見つからず寒さに震えていると、ちょうど峠の頂上にある軍の
駐屯地(ジャンダルマという)から兵隊さんがやってきてついて来いという。
どこか駐屯地のガレージの軒先でも貸してもらえれば・・・と思っていると、
軍への来客者用の部屋を一室あてがってくれた。
食事も三度(夕食と夜食と朝食)ご馳走になり、翌朝出発の時には牛乳やら
チーズやらお菓子やら山のようにお土産を持たせてくれた。
トルコ軍とだけは絶対戦争をしたくない。
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 イスタンブールに着いた11月12日は珍しくいい天気だった。
ボスポラス海峡まで辿り着いた時には既に暗くなっていて、アジア側から見える
色とりどりの灯りに胸が熱くなったのを憶えている。


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走行距離およそ13,000km、通過した国8カ国(日本含む)、立ち寄った
世界遺産16箇所、かかった日数は216日。
福岡を出発した四月から七ヶ月かかってイスタンブールに到着。
いい人生勉強になったと思うが、別にすごいことを成し遂げたというほどのもの
ではない。こんなもん金と時間と体力さえあれば誰でもできると思って始めたし、
実際そうだった。それよりもこの経験を今後の人生にいかに役立てるか、
そっちのほうに今は興味がある。
ロマン・ロランは「ジャン・クリストフ」の中で、「人間は20代を過ぎたら、
それまでの人生をコピーするような生き方をするだけだ」というようなことを
言っているが、今後もこういう経験をコピーするような生き方ができるのなら、
俺の人生、これから先もなかなか面白そうである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


Yさん、なかなか壮絶な(?)シルクロード自転車の旅を送っていただきまして
どうもありがとうございました!!
ご自分の足で自転車で旅したYさんの人生観、人間観はとても柔軟になったかも
しれませんね。
う~ん、これからもYさんの人生、確かに面白そうですよね。

シルクロード自転車の旅 イラン編

【イラン イスラーム体験編】 


ビザ取得に時間をかけすぎ、予定より一ヶ月遅くトルクメニスタン入り。
トルクメニスタンは五日しか滞在できないので毎日限界まで自転車をこいで、
日が沈んだところでテントを張るという鉄人的な走行スケジュールであった。
とは言ってもこの時既に十月、日が短くなっているのでそんなに長時間走れない。
せいぜい120~130kmといったところ。
ちなみにこの旅での一日の最長走行距離は200km。カザフスタンだった。
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 イランのマシュハドに着いたところで久しぶりにホテルへ。
野宿と違って、夜野犬の遠吠えに怯えなくていいというのは安心感がすごい。
あまりに安心しすぎてホテルにパスポートを置き忘れて出発し、
しかも二日後まで気づかなかった。アホである。
取りに戻るのも大仕事だし、テヘランの大使館に送ってもらおうと思って
途中の小さな町で道端の兄ちゃんに携帯を借りてホテルへ電話。
携帯を貸してくれた兄ちゃんがついでに家に泊めてくれた。
おまけに、当日はなんか記念日だったらしく(テレビでマシュハドが映ってたし、
多分イマーム・レザーに因んだものだと思うがよく分からない)
地元のモスクへ連れてってくれた。「ムスリムじゃないけどいいの?」と
訊くが、「えっ別にいいんじゃね?」と気軽に集会に参加させてもらい、
ケーキとか食べさせてもらった。自分の人生でムスリムの集会に参加する
ことがあるとは想像もしていなかった。


 イランといえばアメリカと仲が悪い国で有名である。
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悪の枢軸などと不名誉な称号を与えられ、国内はテロリストがうようよいるかの
ようなイメージがあるが、それは全くの誤りで、この国を旅した人々は
口を揃えて「こんないい国はない」という。
国境付近を除けば治安もいい。俺も18日旅して回っただけだが、イランの
人々のホスピタリティには感心した。
家に泊まっていけとかお茶飲んでいけとかしょっちゅう声かけられるし、
これは中央アジアからそうなのだが、日本では考えられないくらい
フレンドリーである。アメリカの経済制裁のためVISAやマスターカードなどの
クレジットカード類が使えない(イラン国内のカード会社のものならOK)と
不便なところもあるが、道路が日本並みにきれいでチャリダーには
うれしい国である。


 反面宗教色が非常に強い。
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イスラーム教は戒律が厳しい(酒飲んではいけない、豚肉食べない、
音楽もダメ、女性は布で顔を隠す、等等)イメージが強いが、必ずしも
ムスリムが皆それを厳格に守っているわけではない。
中央アジアの人々も基本的に皆ムスリムのはずだが、平気で酒は飲んでいるし
音楽も聴いているし、布なんかかぶってる女性は見当たらない。
豚肉は確かに食べないが、ラマダーンなんか誰かやってんの?という感じである。
しかしイランは一本筋の通ったイスラームの国である。女性は皆しっかり
ヘジャーブをかぶっているし、男性も半ズボンにビーサンの人なんか絶対見ない。
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アルコール類の入手は非常に困難(不可能ではないらしい)。何せ冷戦下に
あってアメリカにもソ連にも頼らずイスラーム革命を成し遂げた骨太の国である。
国民全員が一丸となって政権を支え、世界の鬼っ子となっても平気でたくましく
生きていっている・・・と言いたいところだが、実際俺が聞いたところでは、
国民の政府への評判はかなり悪い。テレビにアフマディネジャド大統領が
映っていると「俺、この人大嫌いなんだ。ウソばっかりついて」とか
言っちゃうし、アメリカと仲が悪いことについて聞くと、「政府の
マネジメントが悪いんだ」とアメリカ批判より政府批判が始まる始末。
Facebookもかなり普及しているようだし、個人的には革命(反革命という
べきか?)も有り得るような気がする。先日もテヘランの英大使館乱入事件
なんかがニュースになっていてショックを受けたのだが、俺が一緒に
話してたような一般の人々がやったものとはちょっと信じがたいのである。


 さて「国境付近以外は治安がいい」と書いたが、実はテヘランから
タブリーズに向かう途中に自転車を盗まれたことを告白しなくてはいけない。
そう、前回アメリカ旅行で自転車を盗まれ、現地で買ったあの自転車を盗まれた
のである。盗まれすぎである。夜テントで寝ていて朝起きたら自転車と
外に置いていた荷物(雨具、防寒具、リシタンでの授業ノートやおみやげの
一部を含む)がなくなっていた。
人生で初めて、人を殺したいと思った。

シルクロード自転車の旅 中央アジア編

【中央アジア ビザ格闘編】 


そんなこんなでiranianvisa.comと約束した2週間は過ぎ、リシタンを出発して
首都タシケントに着いたもののiranianvisa.comから一向に連絡が来ない。
「7-10 working daysってHPに書いてあるじゃん!」と抗議のメールを
送ったが「イランでは木金が休みなんです」と返ってきた。
いや、その代わり土日働いてるって俺知ってるからね?
イライラしながらとうとう三週間待つ。「まだか!」とメールすると
「来週の前半には」と返ってくる。月曜日、火曜日、水曜日と連絡なし。
もちろんその間こちらからはメールを送っている。もうウズベキスタンの
ビザも切れてしまうから出国しなくてはならない。ビザ有効期限の前日、
ダメモトで大使館に相談してみようと行ったタシケントのイラン大使館で
偶然ビシュケクのさくらゲストハウスにいた日本人と再会、iranianvisa.comは
評判悪いということを聞き、彼らの使った旅行代理店(Touranzaminという
ところ)を教えてもらう。即そこに依頼のメールをして翌日出国、
カザフ経由でビシュケクに戻る。ビシュケクで確認するとiranianvisa.comと
Touranzaminと両方から番号が発給されている(タシケントからビシュケクは
460kmくらい離れてます。自転車で三日かかります)。Touranzamin、仕事早い!iranianvisa.com、遅すぎるがな!!遅いのはともかく(それもダメだけど)
うそつきはキライである。iranianvisa.comには「貴社は全く信頼がおけない。
今後二度と使用しないし、イランに行きたいという人がいたら貴社だけは
使わないよう助言する」と男らしく通告した。
こんなに「社会的に破滅させてやりたい」と思った相手は初めてである。
だから皆さんもイランに行く機会があったら、iranianvisa.comだけは絶対に
使わないようにしてください。


 タシケントに舞い戻りトルクメビザを申請した後、三週間もタシケントで
待つわけにはいかないのでさっさと出発した。ウズベキスタンには世界遺産が
四箇所ある。
サマルカンド、シャフリサブス、ブハラ、ヒヴァである。
世界遺産の街はどれも素晴らしかったが、順位をつけるなら
ヒヴァ>サマルカンド≧ブハラ>>>超えられない壁>>>シャフリサブスかな。
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 サマルカンドは言わずとしれた青の都、おそらく最も有名なシルクロードの
都市であろう。紀元前十世紀頃から栄え、アレキサンダー大王に攻められた
りモンゴルに破壊されたりしながらも復興しティムール帝国の首都となった。
現大統領のカリモフ氏もサマルカンドの出身である。
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有名な青の広場などは数十年前は廃墟同然で、大掛かりな修復活動を
経て甦ったという。でも「なあんだ、新築みたいなもんか」とガッカリせずに
見てほしい。やっぱり美しいぞ。シャフリサブスはティムールの生まれ故郷であり、
生前からティムールは自分の墓をシャフリサブスに作っていた
(実際に葬られたのはサマルカンド)。ブハラも有名なシルクロード都市で、
紀元前五世紀にはペルシャ帝国の一部として歴史に登場する。
タラス河畔の戦い以後イスラム化が進行し、かつてはバグダットと並ぶ
イスラム都市とされていた。ラビハウズ付近やカラーンモスクもきれいだが、
オススメはイスマーイール・サーマーニ廟である。公園の中にある小さな
煉瓦作りの建物だが、煉瓦の組み方で描き出している幾何学模様が何とも
言えず美しい。
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ブハラもサマルカンドと同様にかなり修復の手が加わって
いるそうだが、ヒヴァのイチャン・カラ(旧市街)は中世のシルクロード都市が
ほとんどそのまま保存されている。シルクロードの旅にヒヴァを入れないのは
モグリだと言っても言いすぎではあるまい。イチャン・カラもいいが、
オススメしたいのは郊外の遺跡巡りである。
この地域はアムダリヤの流れが変わる度に街を移動させてきた歴史があり、
放棄された古代の城址が360℃の地平線の中にそびえていたりするのだ。
おまけにびっくりするくらい観光客が少なく、天空の城ラピュタ気分に
浸れること請け合いである。
ウズベキスタンはユーラシア大陸ど真ん中、まさしく東洋と西洋の文明の
交差点である。砂漠地帯を結ぶオアシスの町に、様々な人種・民族・言語が
入り乱れて生活を営んでいる、シルクロードの印象に一番ぴったりくる
国だったと思う。
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シルクロード自転車の旅 ウズベキスタン編

【ウズベキスタン 教師体験編】 


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中央アジアを旅する上でちょっと面倒なのは、入国にビザが必要な国が
多いことである。ビザ不要なのはキルギスだけだ。
カザフスタンは日本人にはタダで観光ビザを発給してくれるし、日数も
二、三日と比較的短い。ウズベキスタンは一週間待ち。
 厄介なのがトルクメニスタンで、観光ビザはガイドを手配したりして
スゴク費用がかかる。トランジットビザだと有効期間はたったの五日。
ウズベキスタンの首都タシケントでビザを取得する場合は3週間待ちだという。
しかも出国先(俺の場合はイラン)のビザを持っていないといけない。
従って先にイランビザを取得する必要がある。
話はどんどんややこしくなるが、イランビザの場合はまずネット上で
イラン国内の旅行代理店にビザ発給番号取得の手続きを依頼しなくてはならない。
その番号が発行されたら大使館へ行き、ビザの発給手続きをする。
んで一週間以内にはビザがもらえるという按配である。


つまりタシケントでの場合、①ビザ発給番号取得をネット上で依頼→②番号取得、
イラン大使館へGo→③イランビザGet、トルクメニスタン大使館へGo→
④晴れてトルクメビザ取得、となる(他にもアルマアタで申請するパターン、
タジキスタンのドゥシャンベで申請するパターンなどがある)。
ところがウズベキスタンビザの有効期間が一ヶ月で延長が効かないため、
トルクメビザ発行を待っている間に一旦第三国へ出国しなくてはならない。
即ち、上記③の後、④ウズベキスタンを出国、キルギスへ戻り新しい
ウズベクビザを取得→⑤ウズベクに再入国してトルクメビザを回収、となる。
 ちなみにオシュ街道はもう二度と通りたくなかったので、カザフスタンの
シムケントやタラスを通るルートでキルギスへ戻ることにした。
つまりカザフビザもまた取り直さなくてはいけなかった。
しかもマルチビザをくれなかったので、行きと帰り二回分取る羽目になった。
ああややこしい。


 イランのビザ発給番号取得についてネット上で調べると、iranianvisa.comと
いうところが一番最初に出てきたので、深く考えずにそこに依頼。
7~10 working daysで発給とあるので、二週間くらい待ってればいいんだな、と
思い、待つ間を利用して、ウズベキスタンのファルガナ盆地にある
日本語学校へ行ってきた。
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 ファルガナ盆地のリシタンにはノリコ学級という現地の子供たちのための
日本語教室がある。ウズベキスタンの義務教育では半日しか授業がない。
おまけに綿花の収穫の時期は手伝いのため休みだとか、絶対的な勉強時間が
とにかく少ない。
そこで「子供たちに勉強する場を」ということで作られている。
金持ちのための学校ではない。だから運営は完全にボランティアである。
その学校で、俺は日本語と英語を教えていた。
本当は日本語だけだったハズなのだが、実は俺はカナダでTESOLという
英語教師の資格を取っている。で、英語もいつの間にか任されていた。
九月から日本に留学に行く人が五人いて日本語の特別授業をしたりで、
気がついたら朝から晩までめちゃ働いていた。
この2週間は心底充実していたと思う。やっぱ人と関わらなきゃダメよ、うん。
 この学校の問題は、教師が基本的にボランティアということである。
だから教師は長居しないし、そもそもいるかどうかも分からない。
俺が行ったときはJICAの職員さんが2年間だけ常駐していたが、その人が
常駐としては初めてで、後任がいるかどうかも不明。
お金を取らないから、教える側の人材確保が難しいのだ。


 ところで一人、英語が全く初心者の女の子が、これから大学受験があるので
十日間で英語を教えて欲しいとやってきた。
前述のこれから日本に留学に行くウズベク人が教えたほうがいいと思って
いたのだが(だって立命館APUに英語で試験受かってるくらいだから
相当できるはず)、なぜか彼が通訳に入りながら俺が教えることに。
 言語を勉強する場合、初めからターゲット言語のみで勉強するのはあまり
効率が良くない。不可能ではないが、効率が悪い。
単語一つ教えるのにマンガ描いたりパントマイムしたりしないといけないし。
通訳が入ってもいいけど、同じことを二回話すことになるわけだから結局
時間が倍かかる。何せ十日間ということなのでThis is a penから始めて超特急で
過去形と5W1Hの疑問文まで進む。これでもう一週間くらい。


教えながら確認していると、やっぱり初めての外国語の勉強だからなかなか
スムーズに呑み込めていない。通訳の彼は段々イライラしてくる。
こっちはハラハラしてくる。別に彼女の呑み込みが悪いとか言うんじゃなく、
そもそも無理な話だと思う。まだ現在完了とか仮定法とかあるのに。
一旦おさらいのテストをしてみるとbe動詞を理解していないことが判明。
通訳の彼、かなりキツイ調子でもっかい説明。
「まだわからんのか」みたいなことを言ってる。
で彼が出て行った後泣き出す女の子。どうしたらいいか分からない俺。
 勉強は呑み込みのいい人も悪い人もいる。得意分野・苦手分野もある。
しかしやる気のある生徒相手に理解させてあげられないのは教師の責任問題だろう。
…とはいえ、ペースは考えなくてはいけない。
まあ、ここはもう十日で一通りなんて無謀なプランは捨てよう、と思い
もう一度This is a penからやり直すことにした。
 ウズベク語はテュルク語系という大きなグループに属しており、トルコ語、
アゼリー語、カザフ語やキルギス語と似ていて、文法は日本語と基本的に
一緒である。だから「これはペンです」の「…は…です」がisにあたることは
理解できても、何故疑問文だとそれが先頭に来るのか、そのへんが
呑み込めないみたいなんだなー。
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でもそれが何故なのかとか言ってもあんまり意味ない。
これはこういう使い方をするもんなんだと考えてもらわないと。
通訳は彼女と同い年くらいの女の子に替えて(英語は全然下手だけど、
彼女に教えるには逆にいいかもしれない)、単語リストを作ってあげたりして
(教科書はみんな共同で使っているくらいで、彼女が自習できるような
参考書がそもそもない)色々工夫した。
その子から最終日にバラの花をもらって、「教え方がすごく良かった、
あなたが好きです」と言われた(通訳を介して。うーん、ロマンス)。
そう言ってくれるのは本当にうれしいことだけども、十日かかってようやく
be動詞を教えただけで、本当に自分の教え方は良かったのか、
個人的には疑問である。 十日間朝から晩まで付きっきりなら或いは
可能だったかもしれない。しかしそのために他の英語の授業や日本への
留学生の授業を捨てるわけにもいかない。
人生は常にトレードオフである。

シルクロード自転車の旅 カザフ編

【カザフ・キルギス 異国奮闘編】


 二ヶ月続いた中国をコルガスの国境からカザフスタンへ脱出。
色々と変化がありすぎて驚く。
まず女の子のレベルが上がった。
今まで「結婚するなら日本人の女の子としたい!」と思っていたが、
「カザフ人の女の子でもいい!」と思うようになった。
カザフに入って良くなったのはここだけである。道の舗装が悪くなった。
メシがまずくなった。まともな道路地図がない。
中国から出て一ヶ月くらいは「あぁ中国戻りたい・・・」と切ない気持ちになった
のを覚えている(主に食事の面で)。
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 カザフスタンではアルマアタ(アルマトイ)が、物価は高かったけど、
キレイで何でもあって良かった。しかし国立博物館にトイレットペーパーが
備え付けてなかったのはショックだった。
守衛さんやレセプションに聞いても「ない」という。
またそんな時に限って腸内の活動が活発なのである。
展示に一生懸命集中しようとするが、ご腸内の皆さんの自己主張がスゴイ。
やむを得ず退館してホテルに戻ってしまった。
しかし国立博物館にトイレットペーパーがないとは納得がいかない。
俺は一生許さない。きっと十年後もカザフスタンの話になったら
「アルマアタの国立博物館、トイレットペーパーがなかったんだよねえ」と
いう話をし続けるだろう。


 キルギスの首都ビシュケクではウズベキスタンのビザを取るために
一週間滞在した。ここにはさくらゲストハウスという有名な日本人経営の宿が
ある。そこで出会った車で旅をしているスイス人二人組に誘われ、
ウェールズ人と四人でイシククリ湖に行ってきた。
湖周辺は全然観光地化されておらず、水辺ぎりぎりまで植生のある砂浜に
静かに静かに波が寄せている。十五分ごとに虹が現れる幻想的な天気で、
夜は湖畔で焚き火をしながらダイス遊びに興じた。
ちなみにその夜、俺は30才を迎えた。
 その後、ビザ発給までの残り日数はさくらゲストハウスのオーナーの
娘さんたちと情熱的に過ごした(4歳と7歳、超かわいい)。
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 忘れられないのはビシュケクからオシュへの街道。
最初の峠がもう険しすぎる。
標高3100m付近に中央アジア1の長さを誇るトンネルがあるのだが、
何故もっと低いところに作らなかったのか問いたい。問い詰めたい。
果てしなく続くつづら折れの峠道に心が折れて、途中から自転車を押して
登ったのはナイショである。山中の景色は美しく、キルギスが中央アジアの
アルプスと言われるのも頷ける。感動して、あれだけ登らされたのも
許せてしまった。
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 問題は犬が多いのだ。なんだ犬なんか怖いのか、と思われるかもしれないが、
そういう人は狂犬病(発症したら致死率は100%)の恐れがある地域で
いっぺんマジで追いかけられてみるといいのだ。
噛まれたら病院に行ってワクチンを打ってもらわないといけない。
奴ら目が肉食動物の光に輝いてるし、自転車じゃ短距離走は犬に負ける。
マスターキートンのお父さんだって「犬は地上最強の動物だ」と言ってる
くらいだ。そして犬の最悪なところは、バカなところである。
何の罪もない、ただ自転車で走っているだけの心優しい旅人を狂ったように
吠えながら追いかけてくるのだ。バカでしかない。
犬は人間の友達だなんて言っても、一皮むけば奴らは所詮獣である。
シルクロードの旅全行程を通じ数え切れないほどの犬に追いかけられたが、
このオシュ街道の犬が一番数が多く、一番性質が悪かった。
今度機会があったら、奴らにはキッチリ説教しなくちゃいかん。

2012年01月31日

シルクロード自転車の旅 vol.5

【ウイグル自治区 民族問題編】 


敦煌からウイグル自治区の最初のマトモな街、哈密(ハミ)までは
砂漠のど真ん中を突っ走っていく。
丁度甘粛省との境に「星星峡(シンシンシアと読む)」という地名があり、
字面も響きもロマンティックだなあと、山間にある鄙びた星降る里みたいなのを
勝手に想像していたが、ただの埃っぽい集落だった。
哈密はハミウリで有名なのでこれは何回か買って食ったがマジで美味い。
メロンみたいなモンだが、1kg100円くらいである、お得すぎる。
ハミウリに限らずウイグル自治区ではよく果物を食べた。


砂漠は暑いというのもあるが、空気が非常に乾燥しているため、日本で
過ごしている感覚よりずっと水分を消費している。従って果物はマジ美味い。
砂漠で水を持ち運びできるようにあえて神様が果物っていう存在をこしらえ
たんじゃないだろうかと思う。吐魯番(トルファン)が暑すぎて、いや熱すぎて
死ぬかと思った。50℃近かったと思う。
しかも甘粛省からずっとそうなんだが砂漠の中の道は日陰が皆無である。
照り返しもきつい。日中の11時~15時ごろは暑すぎて道路の下のトンネル
みたいなところで休んでいた。じゃなきゃ死ぬ、比喩じゃなくて本当に死ぬ。


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 さてウイグル自治区といえば民族問題である。ウイグル自治区は
「東トルキスタン」という別名も持っていて根強い独立論者も多い。
ちょうどこの旅を思い立った2009年にも漢民族とウイグル民族の間で大規模な
衝突が起こっていた。
反日感情が強いという中国人だって話してみたら親切だったりするんだ、
漢民族とウイグル民族の反目も実は大したことないのでは、と思っていたが、
その期待は残念な形で裏切られた。
吐魯番で遺跡観に行くのに車に乗せていってくれたウイグル人の
兄ちゃんは
「漢人の女の子はやだ、だってあいつら豚とかロバ食うし
(豚は日本人の女の子も食うよ、って教えたら、マジで?って、ちょっと
へこんでいた)」
「漢人は遺跡とかに興味ない、あいつら飲み食いするだけ」
と敵愾心バチバチであった。
でも、漢人キライでしょ?と試しに聞くと、建前上は
「いや、漢人だからどうのってことはない、俺たちの神は皆平等だと教えている(
ウイグル人はイスラム教です)」と言うのである。


こんなこともあった。
ある日ホテルの目の前にあったウイグル料理店に晩飯を食いに行ったのだが、
俺が日本人だと分かると店のおっちゃんたちが大歓迎してくれ、奥の部屋に
通して入れ代り立ち代り話にくる。8割方が漢民族の悪口である。
ここは俺たちの国なのにやりたい放題だとか、これまで漢人側にやられてきた
ことに対して、ウイグル側がほんの少しやり返しただけでものすごい報復
されるとか。おっちゃん中国語が片言で、途中で息子(12歳くらい)が通訳に
現れる。外国人と話すのに腹の底から憎んでいる民族の言葉を使わなくては
いけない、子供たちにその言葉を教えなくてはいけないというのは本来
屈辱的なことに違いないだろう。


ウルムチのユースホステルで漢人のおっちゃんとウイグル問題について議論する
機会があった。
彼によると、漢人のウイグル人に対する率直な感想は「怖い」だそうだ。
現在漢人のウイグルへの入植が増えており、一つの街の中で「漢人エリア」と
「ウイグル人」に分かれているので、ウイグル人たちは「自分たちの国」にいながら
マイノリティーになる場面も多々ある。
ウイグル人は漢人を侵略者だと思っていて、時として怒りが爆発し、
道端や市場で漢人を襲うこともあるという。
2009年の暴動はネット上でのデマが発端だったらしいが、「似たようなことがまた
起こっても少しも不思議じゃない。不平不満を力で押さえつける政府は続かない」
そうである。
一介の旅人からすると、世界中どこへ行っても人というのは基本的に
善良なものだ、と楽観的に考えがちだが、やはり現地人は、ほんの上澄みしか
見ることができない旅人とは違うモノの見方を持っている。


だがそれでも俺は思う。個々人は深く知ればきっといい人で、表面上は違って
見えても人間みな同じなんだというのは一つの真理であると。
これが「民族」という集団になると、まるで個々人などないかのように振舞うのも
また一つの真理であるとしても。
そしていつか、世界が一つの家族のようになる日がきっと来ると信じたい。
そのために俺に何ができるのかは、これからの課題である。

2012年01月10日

シルクロード自転車の旅 vol.4

続いて西安ではこれも世界遺産の秦の始皇帝陵や兵馬俑、陝西省歴史博物館、
回民街などを観光。


始皇帝陵と兵馬俑はユースホステルから出ているツアー(英語)に参加。
一緒に参加していたアメリカ人親子と翌日ゲームセンターに行ったりして遊ぶ。
博物館は地域最大級のもので、シルクロードの理解を深めるために是非とも
行かなくてはと思っていた。


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回民街では色々な屋台が出ていて、おいしいものをうんとこさ食べた。
うどん屋さんにかわいい女の子がいたので写真を撮らせてくれとお願いしたが
すげなく断られてやるせない思いをしたりした。


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ややマイナーだが武威では西夏博物館に立ち寄る。
西夏は宋の時代この地域を支配していたタングートの王朝で、独自の西夏文字で
知られる。モンゴルが文献などを徹底的に破壊したため西夏について知ることは
容易ではない。
西夏文字解読の重要な手がかりとなった西夏・漢両記の碑が武威の西夏博物館に
ある、というので楽しみにしていたのだ(スピリッツ連載の「シュトヘル」の
影響は否定できない)。


河西回廊では万里の長城の遺跡を幹線沿いに見ながら走っていたが、西の果て嘉峪関でしっかりご対面。


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そして何と言っても敦煌。実は敦煌は少しコースから外れていた。
立ち寄るためには一日分余計に走らなくてはいけなかった。
しかしシルクロードを旅のテーマとしていて敦煌に寄らないわけにはいかない
のである。世界遺産の莫高窟をはじめ、漢長城、玉門関、鳴砂山など観光
スポットが目白押しで、街自体も旅人に居心地の良いところだった
(つまり、あまり中国らしい街ではなかったが)。
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↑ 莫高窟


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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つづきます。

2011年12月15日

シルクロード自転車の旅 Vol.3

【中国 中華文明堪能編 ①】 


下関をフェリーで発って、中国・青島に上陸したのは4月15日。
まず目指すは西安、シルクロード東の基点である。
青島からその西安までが1000km以上ある。
更に敦煌まで1500km以上、ウイグル自治区が2000kmくらいと、中国だけで
5000km近くを走った。滞在期間はおよそ二ヶ月。それだけ長くいることだし、
言葉が分からないと不便だろうと思い、昔から勉強したいと思っていた中国語を
出発前に2ヶ月ほど学習した。
ところでよく「言葉が分からなくても何とかなる」というが、言葉が分から
なかったら旅の面白みは3割減だろうと思う。ツアー旅行みたいなのが好きなら
別に構わないし、コミュニケーションの手段は言語のみではないのは確かだが、
道端のおっちゃんと国際問題について意見を交換し、商店のおばちゃんと
価格交渉し、可愛い女の子を見つけたら口説く、これは言葉が分からないと
大変不便なのである。
対話できずして人を知ることはできず、人を知らずしてその国を知ったとは
言えないのである。


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中国に関しては環境汚染、食事の質の悪さ、反日感情など悪いイメージばかりが
先行していたが、確かに都市部では空気は悪いものの、メシはうまいし人々は
親切で、中国は俄然大好きな国になってしまった。
初日から道に迷っていると原付に乗ったおっちゃんが道案内してくれて昼飯も
おごってくれる。
道端で休憩してると話しかけてきて、日本嫌いっていう人もいるけど
「日中手を取り合って仲良くしなきゃね」と延々と語ってくる兄ちゃんがいたり、
ホテルにチェックインしようとしたら、日本人が来た!と言って従業員がコーフン
しながら集まってきてみんなで荷物持っていってくれたり(安宿では普通自分で
持っていく)、中国は反日感情が強いっていうのは都市伝説か何かじゃないの?
と言いたくなるくらい、日本人だからといってイヤな思いをしたことは誓って
一度もない。まあ日本嫌いは確かにいるのだろうが。


西安の周辺に少しアップダウンがあるが、道は概ねフラットで走りやすい。
黄砂のシーズンでもあり埃っぽいのが少し辛かった。
青島あたりはまだ肌寒かったが、洛陽では4月末で34℃と真夏のような陽気。
西安の前後で大分雰囲気が変わって、蘭州以降、有名な河西回廊はもう完全に
砂漠地帯である。いかにも暑そうだが、標高が高い為むしろ寒い。
武威の手前では五月なのに雪が降ってきた。敦煌周辺はだだっぴろい
砂漠地帯で風がめちゃくちゃ強いのだが、そのスケール感は圧倒的で、
思い出すだけでも鳥肌が立つ。あんなの見たらもう鳥取砂丘なんて箱庭である
(鳥取の人ゴメンナサイ)。


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つづく・・・

2011年12月10日

シルクロード自転車の旅 vol.2

アイザックの元ロシア語生徒のYさんのシルクロード自転車の旅、
Vol.2です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<事前準備編2>
まず俺は中国語(北京語)の勉強を始めた。
何せ総行程約12,000kmのうち5,000km以上が中国なのだ。
(計画当初の数字。実際は少し違った)言葉が分かったほうが絶対にいい。
俺は中国語の勉強もアイザックに行きたくて行きたくて仕方なかったが、
その時は福岡在住、アイザックは福岡にないので涙ながらに違うところに
お世話になった。
そして自転車を改造。この自転車ではこれまでせいぜい一週間くらいしか
走ったことがないのだ。半年以上となるともっと色々装備を考えなくては
いけない。


ビザは中国の観光ビザだけ日本で取得。
本当は天津から入って北京を通って行きたかったが、下関からのフェリーが
青島行きしかなかったので諦めた。
フェリーでの入国を選んだのはなるべく飛行機を使いたくなかったからである。
飛行機に乗る時には「輪行」といって自転車を分解し専用の袋に入れて持って
行かなくてはいけない。
下関から青島へのフェリーは「オリエントフェリー」という会社が運行しているが、
チケットはJTBなどの旅行会社を通さないと買えない仕組みになっている。
持参品は以下の通り。


・自転車:FUJIのクロスバイク。アメリカで約700$で購入したもの。
前後にキャリアをつけ、ハンドルバーにもう一つキャリーバッグ用のベースを
つけた。ヘッドライトは前バッグ、テールライトは後バッグにつけている。
・メンテ用具一式:パンク修理キット(パッチ多めに)、アーレンキーセット×2
(1コはアーレンキーのみ、1コは十徳ナイフみたいになってるやつ)、
オイル、洗浄スプレー、ブラシ、ギアシフト及びブレーキの予備ケーブル、
ブレーキの予備シュー、予備タイヤ1本、予備チューブ4本、針金・布テープ・麻紐等
・キャンプ用具:テント一式、マット、寝袋、シュラフカバー、ガスボンベ、
ろうそく、コッヘル、ヘッドランプ、ライター、蚊取り線香、虫除けジェル、
ロールペーパー
・衣服類:半袖シャツ2、長袖シャツ2、ズボン(脚のところ取り外しできるやつ)
2、靴下4足、チャリ用パンツ3枚、普通パンツ2枚、防寒具(フリースベスト1、
フリース1、毛糸の靴下、ネックウォーマー、ももひき)、タオル2枚
・雨具:ゴアテックスレインウェア上下、シューズカバー、
ザックカバー(1枚だけ。前後4つのキャリーバッグはORTLIEBの防水のもの。TOPEAKの補助バッグが前後2つあり、防水でないのは後ろの一つだけ)。
・貴重品:パスポート、iPhone、カメラ(Canon G-10)、日本円約10万円、米ドル約1000$、クレジットカード(VISA)、キャッシュパスポート(10万円入り)
・その他:サングラス、予備眼鏡、マスク、紫外線防止リップクリーム、目薬、
正露丸、バファリン、綿棒、ポカリ粉末1箱、軍手、チャリ用手袋、蚊帳、日記帳、
ビザ申請用写真10枚、はさみ、毛抜き、歯磨き、歯ブラシ予備、石鹸、日焼け止め、
保湿クリーム、輪行バッグ


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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
↑自転車で大陸横断などお考えの方はご参考に・・・。

2011年12月07日

シルクロード自転車の旅 vol.1

先日自転車で約13,000km(!)のシルクロード横断の旅を終えた
アイザックの元ロシア語の生徒、Yさんからレポートがきました!
4月から青島から走り始め、11月までかかったということですね。。。
半年以上ですか~汗
前はアメリカ縦断の旅を送っていただいたのですが、今回はユーラシア
大陸ということで、その旅の様子をブログに掲載させていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


<事前準備編>
以前アメリカを自転車で走った時に見た景色は、頭の奥底にこびりついて、
時々俺の心を揺さぶるようになってしまった。
「もっと走らなくていいのか、あの地平線の向こう側へ行かなくていいのか」
と。
そんなことをするのなら、仕事は辞めなくてはならない。
五年勤めた会社とはいえ、辞める決心は割とすぐついた。
しかし考えてみると、せっかく辞めてまで行くにはアメリカ大陸は
ちょっと魅力不足ではないだろうか。国はアメリカ一カ国、言葉は英語ひとつ、
距離はたった5000km程度である。これじゃあchallengingとは言えない。
不遜にも俺はそう思った。
そうだ、何もアメリカにこだわる必要はない。大陸は6つあるのだ。
ユーラシア大陸を選んだのは、一つには俺がたまたまロシア語を話せたからである。
旧ソ連圏であった中央アジア諸国はロシア語が通じる。
これはなんといってもアイザックのおかげなのである。
個人指導でネイティヴの講師がみっちり鍛えてくれた我がロシア語、
今使わずにいつ使うのだ?


 もう一つには俺が歴史好きというのもある。であれば中国やヨーロッパにも
勿論興味はあったのだが、実は中央アジアに惹かれていた。
高校や大学の受験科目など、世界史といえばヨーロッパ史のことというような
言説もある。しかし歴史上、東に中華文明、西に西欧文明を圧倒的な軍事力で
長く脅かしていたのは中央アジアの遊牧民族である。
世界を見たい、と思って一つだけ大陸を選ぶならユーラシア大陸が俺には最も
魅力的であった。かつて東洋と西洋を結んだ陸の貿易路、シルクロードの旅の
構想はこうして浮かんできた。


シルクロードの文明を巡る旅。
カッコイイじゃないか。これで旅のテーマは決まった。


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つづく・・・

2011年10月24日

スイスのチョコ

世界の国それぞれ「お土産」がありますが、どの国にもなぜか必ずと言っても
いいくらいあるのが「チョコレート」ですよね。
このチョコレートも同じではなく、国によって中に入っているものや舌触り
が違い、味や外見に個性がありますね。
先日は元エアラインの生徒さんが渡航先のスイスのチョコレートを持って
遊びにきてくださいました!
このスイスチョコ、かわいい~!


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世界中を飛び回っていていると日にちとか曜日とか分からなくなってくる
そうですが・・・。どうぞ元気でご活躍ください!

2011年06月28日

自転車で大陸横断の旅!

2年前にロシア語のレッスンを受講されていたYさん。
以前にアメリカの自転車の旅のレポートをいただいたことがあるのですが、
今回は自転車で大陸横断の旅、です!!
四月から開始し、青島から敦煌、カザフスタンのアルマアタに到着されたとのこと。
走行距離も5000kmを突破しました!とのことです。
アイザックで学んだロシア語が役に立っているそうですね。
お金さえ尽きなければ、ポルトガルまで行きたい、最低でもイスタンブールまで!
とメールをいただきました。写真はカザフスタンだそうです。
ザ・自由人、Yさんの撮った異国の雰囲気、どうぞお楽しみください~!


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2010年01月21日

♪ ドイツ 音楽&実力試しの旅 ♪ 

昨年末、ドイツ語生徒の上北友子さん(社会人)がドイツに旅行して来られ、
お話を聞かせていただきました~!以前、ドイツ語を始めたばかりの頃に
旅行したときはなかなかうまく通じなかったそうですが、今や、かなり上達された
上北さん。
さて、どんな珍道中!?が待っていたのでしょうか!


↓以前のインタビュー
http://www.airline.gr.jp/blog/2008/11/post_103.html


【旅行日程と目的】
スタッフ:ドイツはどの都市を回られたんですか?


上北さん:ハンブルク⇒ベルリン⇒ライプツィヒ⇒日本で、大体10日間の旅でした。


スタッフ:今回の旅の目的は?


上北さん:音楽聴いてですねぇ・・・自分のドイツ語を試すことです!!
     10日間でクラシックコンサートを3つ聴きに行ったんですが、
     格安でしたねー。全部で1万4千円くらいでしたよ。
     日本だったら1回分ですよね。有名なベルリンフィルやライプツィヒ
     ゲバントハウスオーケストラも聴きに行ったし・・・。
     ホールもすごくキレイでしたよ!


スタッフ:今回、お友達と一緒に行かれたんでしたよね。同じ音楽友達ですか?


上北さん:ええ、私のホルンの伴奏をしてくれたりコンクールに一緒に出た
     友達なんです。その友達が英語しか話せないから
     「とんちゃん、ドイツ語頼んだよ!」って言われて・・・(笑)


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 ↑バッハ像          ↑ハンブルクのコンサートホール


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↑ベルリン名物カレーソーセージ      ↑ブラームス博物館


【ドイツ語でコミュニケーション♪】
上北さん:その友達がバレエをしていまして、バレエも観たい!って言いまして(笑)
     あらかじめ予約も何もしていないので、チケット買わないといけない
     わけですよ!私が!(笑)


スタッフ:そこでドイツ語が役に立ったってわけですね~!


上北さん:そうですね~。格安でバレエのチケット、買えましたよ。
     やっぱり、ドイツ語で話すと皆やさしいです。
     信号待ちの時も道を尋ねると、親切に教えてもらって、「君、ドイツ語
     うまいね~」なんて言われて、ちょっと自信つきましたね~!
     で、教えてもらったお礼に、「ま、かりんとうでも。」ってあげましてね。
     微妙な感じで食べてました(笑)   


スタッフ: 信号待ちの間に、異文化交流もしたんですね~(爆)!
      旅行の中で一番印象的だったことって何でしたか?


上北さん:サイフ盗られたことです!!ベルリンではあったのに、ライプツィヒで
     なくて。カードも入ってたしもう顔面蒼白でした。
     もう必死でホテルのフロントの人に話して、家に電話かけさせてもらって
     カードを止めたんですが、一体どんなドイツ語を話したのか覚えて
     ないくらい焦ってました。


スタッフ: ドイツ語ができてよかったですね~。


上北さん: そうですね。でももう旅行中、切符の買い方とか道とか色んな人に
      教えてもらって、助けてもらいながら旅行してました。
      分からなかったら手を引いて教えてくれたり、本当に親切でした。
      これから5月のスイスの音楽学校の試験に向けて、がんばります。
      前は私のドイツ語がまだまだだったんで今回こそは、と!


スタッフ: ぜひがんばってくださいね!!


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 ↑信号。アンペルマンと呼ばれ、  ↑世界遺産!ベルリン大聖堂
 キャラクターショップまで
  存在する人気ぶり!
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↑ハンブルクの街並み       ↑赤レンガの街並みもこれまた世界遺産!


♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・


いつも上北さんが来られると、アイザックがパッと明るくなります!
「かりんとう」を渡すところが、何だかとっても上北さんらしいです(笑)。
ドイツ語を通して、すばらしい道が開けていくよう、アイザックも続けて
応援していきたいと思っています!
     
  

2010年01月06日

生徒さんベトナムで活躍!

皆さま、新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


さて、今回はアイザックで語学を勉強して、その後、海外で活躍されている
生徒さんをご紹介いたします!
以前にブログにも掲載させていただきました、ベトナム語の鮫島さんです。
http://www.airline.gr.jp/blog/2009/02/post_118.html


鮫島さんはアイザックでベトナム語を初級レベルからかなりの上級レベルまで
上げ、ベトナムでの医療活動を志してホーチミンに行かれた後の後日談です。
現在、ホーチミンで貧しい人たちを中心に無償で歯科診療をしている
NPO法人東洋歯学友好会の医師と現地の人とを助ける働きをされています。


先日、「赤ひげ歯科医ベトナム奮闘記」というタイトルで番組が放送され、
その中に登場されていました!!
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ベトナムは急激な経済成長の途上にある一方で、貧富の差が大きく、
病院もとても少ないので充分な診療を受けられない人が非常に多いそうです。
そんな中で活躍されている鮫島さん。ぜひベトナムの医療事情の改善の貢献の
ためにがんばってほしいですね!!


 


2009年10月19日

BELLY DANCE SHOW

最近は「ベリーダンス」がとても人気のようですね♪


アイザックのアラビア語の生徒さん(TOMIKO)の所属する
CELL BLOCK エスニックスタジオにて
11/8(日)にBELLY DANCE SHOWがあります!

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ファイルをダウンロード


ベリーダンスにご興味のある方、ぜひどうぞ!
レッスンも行っています。


●お問合せ
 〒550-0015
 大阪市西区南堀江2-13-26
 06-4390-6934
 CELL BLOCK


2009年08月01日

TOEIC セミナーに参加して

TOEICセミナーで新発見!



先日開催されました「TOEIC力UP↑セミナー」に参加されたR・Oさんから感想いただきましたので、ご紹介させていただきます。


☆。・・☆・。。★。.・☆・。。・★・。・・☆。・・★・。。☆・。・★。。・☆・。。☆


『今回、TOEICの勉強に行き詰っていたということもあり、このセミナーで答えをつかみたいと思い、
参加させていただきました。最初はとても緊張していたのですが、
英語講師の方が非常にフレンドリーで親しみやすく、相手に安心感を与える感じの
方だったので、落ち着いてレッスンに取り組むことが出来ました。


レッスンは最初レベルチェックをし、その後答え合わせをしながら、
私のレベルに合わせてレッスンが進んでいきました。


しかも、問題を解かせるのみのレッスンではなく、英語の勉強のなかで何に
つまづいているのか、そして今後どのような点を高めたらいいのか、そのための
勉強方法はなにか・・・私が英語の勉強で困っているということを
事前に伝えたわけではないのですが、レッスンの中で
見事に示して下さいました!


まさに目からうろこ、といった感じのセミナーでした。今回参加出来てよかったです。』
                   (R・O 23歳 OL)


☆。・・☆・。。★。.・☆・。。・★・。・・☆。・・★・。。☆・。・★。。・☆・。。☆


R・Oさん、ありがとうございます!!
アイザックには、このようにすばらしい講師たちがたくさん集っています。
もしかしたら、このようなセミナーで今まで行き詰っていたこと、気づかなかった
ところが解決するかもしれません!


英語以外にも様々な異文化理解セミナーも開催しています!
参加費はたったの¥1,000です!!
30ヶ国語を扱うアイザックならではの「おトク感たっぷりのセミナー」です!
一度アイザックの門を叩いてみませんか?


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2009年02月19日

ロサンゼルス~サンフランシスコ 自転車の旅 最終回

さぁ、いよいよYさんのアメリカ自転車の旅、最終回!!


Yさんが行ったKansaiって別にたこ焼きとかお好み焼きとかが
出てくるわけではないんですか??
出てきてもビミョーな気持ちですが、ちょっと期待してしまいました。


---------------------------------------------------------


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【1/3】


ゴールデンゲートブリッジに行き、フィッシャーマンズワーフに行き、
普通の観光客として市内をうろうろする。とにかく寒い。
Los Angelsからずっと暖かい気候だったが、Montereyあたりから
寒くなった。あと坂が多く、自転車で移動するのは結構疲れる。


でもそれを別にすればいい街だと思う。もっと時間をかけて回ってみたい。
いずれ、そのうち。


夜は昨日夕食をとったKansai店員のお姉さん(日本人)と飲みに行く。
何でも昔、語学留学に来てそのまま住み着いてしまったらしい。
色んな人生があるものだ・・・。


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【1/4】


ホテルからタクシーで空港へ。
タクシーの運ちゃんと話していると
「ロスから自転車で来たって?そんなの信じられないな」
と疑われる。いやいやホントだって。


これまで荷物を増やせないからお土産購入を控えていたが、
空港まで来たらもう怖いもんなしになり、会社へのお土産と実家へのお土産と
自分へのお土産(これが一番多い)を買い込む。


【1/5】


関空から自宅へ。
梅田から乗ったタクシーの運ちゃんが、英語ができるということにやたら感心する。


時々外国人の客も乗せるらしく「私も英語勉強しようかな」と言うので、
それなら是非アイザックに通うといいですよ、プライベートレッスンで
一流講師が受講者のレベルに合わせた授業をしてくれるし、無料体験レッスンも・・・と
言おうかと思ったけど、長い飛行機移動で疲れていたし、第一私が取っている
コースはロシア語なのでやめておいた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
どうも、Yさん、お疲れ様でしたぁ・・・。
きっと忘れられない年末年始になったことでしょうー!
今度はぜひロシア自転車の旅に挑戦してくださいね。
アイザックでロシア語を鍛えれば、ロシアンポリスも怖くない!(笑)
ロシアの警察はかなり信頼できないらしいですけどね・・・。
その際にはまた旅行記事、待ってま~す(笑)♪


2009年02月13日

ロサンゼルス~サンフランシスコ自転車の旅④

ロサンゼルスからサンフランシスコへの旅もそろそろ大詰め。
アメリカンポリスのお世話になりつつ、また、金属疲労をおこしつつ
新年を迎え、ついにYさんは目指すサンフランシスコに到着か!?


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【1/1】


Happy new year!ということでMontereyを出発。
ハイウェイはいいけども、市街地は道によく迷ってしまう。
受付の兄ちゃんがSan Franciscoまでのルートをわざわざ調べてくれた。
ありがたい。いや本当はもっとシッカリ下調べしておくべきなんだけども、
道に迷って人に聞くのもまたいい経験になる。


それにしても新年早々から、腿筋から始まって膝、股間(サドルにずっと座ってるから)、
腰、肩、眼(紫外線と潮風)、爪(手袋がちょっぴり小さかったようだ)まで体中を
痛めながら自転車こいでるなんて、一体何を目指しているんだろう?
と言いつつ、そんな自分が結構好きだったりする。


この日は元日だし、80kmくらい走ったSanta Cruzで行動終了。
それにしてもどこのホテルに行っても思うのが
「アメリカって、トイレと風呂に関しては遥かに日本に及ばない」。


まず私にとってはトイレにウォシュレットがない時点でかなりマイナスなのである。
更に便座が冷たい。
一日自転車をこいでいるからゆっくり湯船につかりたいのに、バスタブがない
ホテルも多いし、あっても浅い。
発想が「浸かるためのバスタブ」ではなく「シャワー受けのためのバスタブ」なのだ。
極めつけに、トイレと風呂が一緒の空間にあるのである
(これは日本のホテルも大体そうだけど)!
せっかくキレイになって出てきても、臭いがついてしまうじゃないですか、臭いが・・・。


【1/2】
出発して間もなく小雨が降り出し、段々勢いを増す。
最終日に来て雨かよ、と思いながらカッパを着て自転車を一心不乱にこぐ。
寒い。ちょっと休憩すると一瞬で体が冷えてしまう。
そしてまたアップダウンが続く。
無心にこいでいるうちに雨は上がり、ようやく最終目的地である
San Francisco地区の端っこまでたどり着いた。
それとほぼ同時に雲が切れて青空と太陽が。
おぉ、神も私の到着を祝福している。


120km程度を走り終え、市内に入って一番最初に見つけたモーテルにチェックイン。
アメリカンフードは飽きたので、近所にある日本食レストラン「Kansai」に
夕食に行く(店員さんに聞いてみたが、何故「Kansai」なのかは分からなかった)。
米!なんと美味い食べ物だろうか!
自分がこよなく日本食を愛していることを実感した夜でした。


つづく・・・次はいよいよYさんの旅日記最終回 T_T

2009年02月08日

ロサンゼルス~サンフランシスコ自転車旅行記③

年末年始にかけて西海岸を自転車でこぎ続けるYさん・・・。
さてさて、順調にいっているのでしょうか??
今回は彼の道中にどんなことが待ち受けていたのでしょうか!?


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【12/30】


この日はまたアメリカンポリスの世話になってしまった。


ハイウェイには自転車用のレーンがあるが、道路の端のため
荒れていることも多い。
下り坂で飛ばしていた私は、ホイールのガタツキがあるので、
振動を嫌って自動車レーンへはみ出して走行していた。
そうしたら・・・またパトカーが来て・・・。
今度はこってり怒られました。


「アンタ死にたいの!?」
「いえ・・・死にたくありません」(マヌケな返答だがこう応えるしかなかった)
「日本じゃチャリが自動車レーンを走ってもいいわけ?」
「ええと・・・(日本は自転車は軽車両だから道交法上は車道を
走ることになっているが、高速道路には入れない。
しかし高速道路とハイウェイを一緒にしていいものか、
でも日本でもダメですと言ったら話がややこしくなりそうだし)。はい、多分・・・」
「日本じゃいいかもしれないが、ここじゃダメだよ。死にたくないんだろ?」
「死にたくないです」
「じゃあもう二度とやっちゃダメだよ」
「二度としません」


ふう・・・。
この日は140km近く走ったと思う。何しろ計画から遅れているものだから
私も必死なのである。


【12/31】


今日という今日は死ぬかと思った。
アップダウンは多いわ、風は強いわで、正直海岸線はもううんざりだ。
ほんと海岸線のアップダウンときたら!どうせ登るなら下りなきゃいいじゃん。
あと風!下り坂なのにペダルを踏まなきゃ前に進まないなんて信じられない。
冗談じゃなく死ぬほどハードで、2008年の大晦日と一緒に自分の
人生の大晦日になるかと思った。
途中、トラックの運ちゃんに話しかけられて、ロスからシスコまで自転車で
走ってるんだと言うと「Oh!You must be Ironman!」と感心される。
いや鉄人にしちゃ大分金属疲労してますが・・・。
挙句の果て、Monterey市街地に入ってハイウェイを下りると
また道が分からなくなった。暗くなって霧まで出てきてどんどん
寂しい道に入っていく。ハッキリ言って超怖い。
とりあえず小便しようと自転車を止めたらパトカーが通りがかって、
ホテルまでの道を教えてくれた。この旅で都合4回警察にお世話になったが、
いいことでお世話になったのはこの最後の一回だけだった。
ホテルの受付の兄ちゃんが世界の通貨を集めているとかで、
1000円札をくれというのでホテル代を10ドル割引してもらう。
円高だからほんとは11ドルくらいなんだが・・・。ま、いいか。
この日も140km近く走り、ようやく当初の計画に追いついた。
代わりに足はパンパンである。西海岸を甘く見ていたと反省。


America6.jpg


つづく・・・


2009年02月01日

ロサンゼルス~サンフランシスコ自転車旅行記②

さて、アイザックのタフガイ、Yさんのロサンゼルス~サンフランシスコ
自転車旅行記の2回目です!
まだまだ彼の自転車の旅は続きます・・・。



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【12/28】


前日ひどく疲労していたためか、起床が9:00頃とかなり遅く、
しかも道に迷ってしまいVenturaからなかなか出られなかった。
ハイウェイは通れないので、と思いとった道がかなり遠回りで
しかもアップダウンの多い山道。


Los Alamosまで行くつもりがSanta Barbaraの手前で暗くなってしまった。
日ごろ仕事にかまけて、ろくにトレーニングもやっていなかったツケもあり
体力的には限界である。しかも道はどんどん寂しい方向へ向かう。


ここは一体どこなのだ・・・。


ジュンク堂で買ったカリフォルニアの地図は大雑把すぎて分からない。
事前の計画と比べると、今日の行程はSanta Barbaraでまだ半分である。
 こりゃもうダメだ。もう自転車旅行は今日でやめよう。
今日はSanta Barbaraで泊まって、明日バスでSan Franciscoまで行こう。
で、帰りの日までのんびり過ごしたらいいじゃないか。
なんだって年の瀬にこんな困難に挑戦しなくちゃあならないんだ。


 心からそう思って、何とかかんとかモーテルまでたどり着いた。
ああよかった。もう夜遅くまで自転車でさまようのはこりごりだ。
モーテルの人にバスの停留所の場所を聞こう・・・。


ところがそこのオーナーは自転車をやっているらしく、
わざわざ日本からやってきたサイクリストにひどく感心した模様で、
そこから先のコースについて熱心に教えてくれるのであった。


「このルート154はビューティフルでゴージャスで、君泣くよ。
泣いて、サンキュージーザス!って言っちゃうぜ。マジで」


・・・そんなこと言われたら、明日も走らずにはいられないッ!!
走行距離は道に迷ったため不明だが、100km以上は走ったと思われる。


America%20mountain.jpg


【12/29】


ようやく早朝出発(といっても七時くらい)に成功。
道にも迷わず、余裕を持ってSanta Mariaまで到着。
天気も良く、確かにビューティフルだった。
オーナーの教え通り、ちゃんと「Thank you Jesus!」と言っておいた。
(キリスト教徒でない人が軽々しく神の名を口にしちゃいけないらしいけど・・・)


走行距離は100kmくらいだったが午後三時にはホテルにチェックイン。
当初の計画からは約半日分の遅れが出ている。
計画では一日の予備日を見ているが、その予備日を使ってしまうと
San Franciscoで観光ができなくなってしまうので、極力計画通りに進みたい。
そうすると、どこかで無理して追いつかなくてはいけないが・・・。


一昨日排水口の段差にぶつけたため、後輪のホイールにちょっと
がたつきが出ているようなので、Santa Mariaで自転車屋さんに行って相談。
「完全に歪んでいるから、ここじゃ修理は無理だよ」と言われ、
一応スポークの調整だけしてもらう。
まあ何とかなるだろう。

America5.jpg


つづく・・・


2009年01月25日

ロサンゼルス~サンフランシスコ自転車旅行記①

同じ海外旅行でもいわゆるパック旅行ではなく、自分流の冒険旅行。
時々テレビなどで見ることありますね。
はぁ、あんな風にちょっと印象的な旅行、やってみたいな~と
あこがれたりしますよね!


なんと12/26から1/5にかけてアメリカのロサンゼルスからサンフランシスコまで
「自転車の旅(!)」 をしたアイザックのロシア語の生徒の
Yさん(男性・社会人)がそのハラハラドキドキ珍道中旅行記をアイザックに
送ってくれました☆
・・・かなりタフですよね!(汗)

数回に分けて連載でご紹介していきたいと思いますので、
皆さんも一緒に楽しんでくださいね☆


map.jpg


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【12/26】


関空を26日の18時過ぎに出発して、Los Angels空港着が26日の
14時くらいなので、ちょっと時間を得したような気になる。
帰国するとき結局戻るのだけども。
荷物を受け取り、空港の外で自転車を組み立ててから出発。
Santa Monicaまでなので、一時間程度で到着し、ドミトリー方式の
ホテルにチェックイン。
夕食を食べたレストランで、前に日本に行ったことがあるというメキシコのおっちゃんに
「日本人はみんな親切だ」
と握手を求められる。日本人として悪い気はしない。
うん、これから道で困った外国人を見つけたら親切にしよう。
 この日の走行距離は約15km程度。



【12/27】


 朝から精神的な大恐慌に見舞われる。


何とホテルの前に止めておいた自転車がなくなっている。
何故だ、盗まれたのか。なんてひどい国だ。どうしたらいいのだ。
待て、落ち着け、まずはホテルの受付に訴えなくては。
こんな時こそアイザックで鍛えた英語力で・・・。
しまった、俺がアイザックで取っていたのはロシア語だった。


 ともかくホテルの受付へ行き、保険会社へ電話し、警察で調書を
取ってもらい、近くの自転車屋で新しい自転車を購入。
出発は昼頃になってしまった。


 この日はVenturaまでだったが、出発が遅くなったので夜まで走行。
アメリカのハイウェイは都市部になると「自転車は下道へ」の標識が
出てくるが、周りが暗いため見落としてしまいそのまま走り続けていた。
もうすぐ到着、というところで路肩の排水口にものすごい段差があることに
気付かず衝突、タイヤがパンクしてしまう。
アメリカの全てに呪いの言葉を吐きながら、パンク修理に取り掛かったところで、
後から強力なヘッドライトで照らされる。
パトカーである。オウ、ノウ。
お父さんお母さんごめんなさい。僕をアメリカの刑務所まで迎えに来てください・・・。


「何してるんだ、ここは自転車走行禁止だぞ」
「そうなんですか、知りませんでした。実はパンクしちゃいまして」
「住所は?」
「アノ、日本です」
「日本?」
「ええ、旅行中でして」
「どこまで行くの」
「今日はVenturaまでです」
そんなやりとりの後、そのお巡りさんがVenturaまで送ってくれた。感謝。
この日は100km程度走行。

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つづく・・・